2019年5月3日金曜日

夏日、Postbac poster day、反知性・反科学について考える

 今日は朝は霧がかって涼しかったのですが、日中日差しが強くぐんぐんと気温が上昇、完全に夏日となったベセスダです。外は暑い、汗だくだく。

 今日は Postbac poster day というイベントの日。
 Postbac、ポスバクとは、4年制大学を卒業し、メディカルスクールや院への進学前に一時的に就職して研究活動などを頑張っている若手のフェローのことです。

 NIH には千人単位でポスバクがいますが、今日はそのポスバクさんたちが一堂に会してポスターで研究発表をする日なのです。

Fig.1 カンファレンスセンターを使います


 僭越ながらポスドクとしてジャッジを務めてきました。
 レベルは様々ですが、総じて皆さんよく理解してよい研究をしており、なにより全員熱意がしっかりあって素晴らしい。

Fig.2 ジャッジー

 5人の発表をしっかり聞いて、評価。みんな一生懸命でした。よい。
 若いうちからこういう機会があるのはすばらしいですし、日本と違ってストレートではなくこういった経験を積みながらメディカルスクールを目指したり、院進したり、という経験って大事かもしれないなぁと思わされるイベントです。


 そして熱熱の会場を後にして暑い中歩いてもどる。


 さて、昨日は SNS でちょっと反科学・反知性の方とやり取りをしていろいろ考えこんでしまいました。

 曰く、科学ではわからないことがあるという言い方で根拠のない妄想を論拠にしてしまう、相対性理論などの確立された理論でさえ信仰であって嘘だと証明されているなどと思い込む…そういうのはどうやってそういう知識を手に入れて信じてしまい、そう思い込むのか、そこに興味が湧いてしまったのです。

 ニセ科学界隈の人とか、反医療・反科学の人達は共通して、情報の検証を自分でできず重みづけもできないうえに、嘘や明らかな間違いも両論併記の片方のようにとらえてしまって、評価ができないのはよくわかるのです。

 しかしですね、正当な科学を学ぶ手段なんていくらでもあるし、学校教育でもいくらでもやっているはずなのに、簡単に堕ちてしまうのはなぜなんだろう…例えば、❶教育の習得度が低い、❷根本的に教育を信じないだとか斜に構える態度がついてしまっている、❸学校などで習うことに反することを吹き込む人や媒体が身近にあるなどなどなのかなぁ…うーん。という次第。

 嘘や明らかな間違いを、これが真実なんだ、と確信にまで至ってしまうプロセスや心理状態、知識レベルや認知のありようが知りたいんですよね。そこを明確にできないとこういった考えに陥ることを防げないように思うんですよね…。

 そういう人に共通する態度の一つは、謎の確信と自信、自分はすべて正しく判断で来ているという思い込み、しかも毎回それらがかなり強固であること…もちろんメタ認知ができておらず自分や自分の認識を客観視できていないからなのでしょうけれども、そのレベルでの自信を持ってしまう素の能力というか性質の本質が知りたいわけです。

 そういう人に限って、自分はしっかり判断できているとか、専門的にわかっているだとか思っているわけですが、知識量はかなり少なく偏っており大抵間違っているわけで…。
 もちろん自信におけるダニング=クルーガー効果などはわかっているのですが、どうもそれとも違う確たる効果もあるように感じたりするわけです。

 ぶが反知性・反科学等の間違った情報に信を置いてしまう人を考察したい理由は、精神病理や現象を捉えられれば、一次予防、二次予防・治療、三次予防が可能かもしれないと思うからです。

 そういった反知性的なものによる洗脳を防ぎ、解き、維持するプロセスを「科学的に」なせれば、テクニカルな対応ができれば、少しはいいように思うのですが、もちろん簡単でないことは重々承知です…、しかしその基礎となりうる、精神病理部分はせめて明瞭になるといいなぁと感じたのです。

 まぁ共通点にはあきらかに判断や思い込みの根拠が「快・不快」、態度としては「社会や確立されたものに肯定的になれない」、性質的に「自己を客観視できない」、思考に関しては「自分で思考を続けられない」などは共通項のような気がしますが難しいところ。

 反知性や反科学って、本当にやっかいだなぁと思った次第です。


 まぁそんなこんなで、若い科学者の研究発表を聞き、なんてまともで一生懸命で聡明なんだろうと思う一方で、ある意味では残念な人も世の中にはおおいからなぁ…といろいろ考えこんでしまっている次第です。

 お天気もよいですし、すっきりしたいのですけどね。
 というわけで、仕事をします。
 

  

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3 件のコメント:

  1. Aが信じられていたらBを信じたくなる人が一定数いるだけだと思います。人類の進化の過程で、そのような思考回路の人が一定数いることが有利だったのではないでしょうか?そう考えるとそういう人たちがいるのも当たり前だと思うし、気になりません。一番怖いのは、Bを信じる人たちを何らかの方法で駆逐することが出来たとき、ふとしたことで種そのものが絶滅してしまうかもしれないことです。地震が起きたときに全員が同じ方向に向かって逃げてたら危険でしょう。普段は異質なものとして排除され、搾取されて大多数の人が恩恵を享受し、有事の際には種をつなぐために生き延びてくれる貴重な人たちですから、感謝こそすれ反知性などとコケにしたりせず優しく接してあげたいものです。

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    1. そうやって中世ができあがったのかなぁと思います。たくさんの迷信じみたことでたくさんの命を奪った歴史があるように。思考法は選択圧に対するものとは思っていません。後天的な要素が大きく、教育や環境の要素が大きいと考えているのです。反知性はやはり反知性であって、それらの考え方が人類に多様性をもたらしているというのはちょっと言い過ぎでエラーだと思っています。

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    2. おっしゃる通り飛躍は認めますし、所詮真実は神のみぞ知るところなので、固執するつもりはありません。しかし人類に多様性をもたらしているという考えは言い過ぎですかね?エラーは必要悪だと思いませんか?中世も、ただ人口抑制システムの一環として、一部の思考法が機能しただけだと思います。他の種が持つシステムと同じように。人間も一種の動物ですから。それとも人間だけは特別な知性を備えた自然界の法則を超越する存在だと信じておられますか?
      後天的といっても人間が人間に与える影響が一番大きいので、元をたどればそういう人間を育てるようなプログラムが種に組み込まれていると思います。

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